壁としての託児を超えて
佃 直哉・宝宝
コラム

壁としての託児を超えて

佃 直哉・宝宝

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宝宝で実施した『みどりの栞、挟んでおく』は、ゲイであることを公表して俳優活動をしている団体主宰の長井健一(以下、長井)が、俳優仲間であり、現在シングルマザーとして双子の育児と仕事に勤しむ大島萌さんの

「また演劇に関わりたい」という気持ちに向き合うことを前提に立ち上げられた企画だ。

私は本作の企画の立ち上げを行う中で「舞台芸術と育児」にはじめて向き合うことになった。

企画打ち合わせの際、長井は大島さんと自分の友人関係や子どもを持つことについての自らの考えに加えてパートナーとの思想的な折り合いのつかなさを語りつつ、「違う立場でも共にあろうとすることを諦めたくない。

非当事者として当事者が抱える問題に向きあいたい」という思いを示した。

話を聞いた時、私は「自分という主語を抱えたまま非当事者として向き合う姿勢」を企画のコアにしたいと考えた。

非当事者が当事者問題を描くとき、当事者が抱える固有の問題が、非当事者にとって共感性が高い普遍的な問題に置き換えられてしまうことがある。

壁の向こうにいる存在のディテールは曖昧だ。だからあてはめやすい形に加工して、「こいつらはこうだ」と語る。

自分と同質性のある事柄のみ抽出し、他を透明化する。

そうなれば作品はSNSで見るストローマン論法と変わらないレベルにまで堕落する。

理解とは程遠い悪魔化あるいは聖人化によって伝達力は増すけれど、当事者の実像は消える。

ゲイという主語を抱えた長井が育児当事者に関わる企画、双方に共通する生き苦しさがある一方、利益はときに相反し強く共感できない問題が存在すること、それでもなお共にいたいと思う友人同士の関係が描かれる作品の上演は、同質性の壁の中で、自分たちの問題のみを殊更に取り上げる傾向が強まる今の世界に必要なものだと思った。

企画実施にあたっては合理的配慮に基づきつつ、大島さんをはじめとした育児当事者にヒヤリングを行ったうえで、育児当事者(大島さんに限らず、観客も含めて)が罪悪感を少しでも抱かずにすむような施策をチームで考え実施した。

座組内では、関係者の子どもの面倒が見られるように稽古開始前に子どもとの関係値を築くことや、俳優・スタッフにオファー段階で公演コンセプトを説明し、劇場で子どもと過ごすことに同意してもらい、積極的に関わってもらうことを心がけた。

観客への施策としては安全性の高い外部事業者への託児の委託と、観客自らが知人や施設に託児をお願いすることを「セルフ託児」と定義し、その行為に対して割引を行う「セルフ託児ありがと割」の設置、赤ちゃんと見られる回を用意することで、育児の段階や子どもの調子などによっても変わる育児世帯の状況に可能な限り対応できるように努めた。託児施策の利用率はまちまちだったが、意義ある試みだったと思う。
などとここまで偉そうに語ってはみたが、私は自分と現在直接関係しない「育児」にあまり向き合いたいと思っていなかった。可能ならずっと見ないふりをしていたいと思っていた。それこそ「座組は育児世帯いない人で揃えて……

託児施策はまあとりあえず「マザーズ」呼んでおけばいいんでしょ?」というような理解度だ。

関わりたくないが、問題を無視することの体面の悪さから「やってる感」を出す言い訳として託児サービスを設ける。 

その程度の人間に託児サービスとそれを用いようと考える人たちの実態を掴めるわけがない。

託児サービスの年齢制限、申請期間の悩み、子どもを対象とする公演における音量や光量のレベル感の問題、そういった悩みも「育児」をテーマにし、公演単位で向き合うことでようやく知ったくらいだ。
きっと私は、本来壁を取り下げるものであるはずの「託児サービス」を育児世帯への壁として利用することで社会的に正しいポジションを取りつつ、無意識に育児当事者を自分から遠ざけていたのだと思う。

自分の実感に則したものに引き寄せれば生活保護における水際作戦と同様のやり口だ。非難してきたはずのものを少し立ち位置が変われば平然と他者にやってしまう。本当に愚かだと思う。

育児から遠く離れた同質性の集団の中で凝り固まった醜悪な自分の姿を公演準備の中で何度も発見し、その度に嫌気がさした。

けれどここで感じる居心地の悪さこそ、自分とは異なる他者の当事者性に非当事者として向き合うことそのものなんだろう。

ここまで露悪さや自虐を交えて自分という存在が「育児」という問題から離れた人間であると記してきたのは、私のような育児の当事者から距離のある人間にとっても「舞台芸術で他者の育児に向き合う」ことに価値があると思うからだ。

事実に即したメリットの話をしよう。

まず話題性。私たちが上述の公演コンセプトや託児施策を発表した後、公演経験はわずか一回の団体宛にインタビューのオファーがきた。

育児へのコミットの公言は広報面で有効だったに留まらず、非当事者のメンバーが「子育てと舞台芸術」に関するコラム執筆をオファーされるほど影響力があった。

次に集客。ありがたいことに『みどりの栞、挟んでおく』は初日の2週間前には全席が完売し(券売が一気に伸びたのは上述のインタビューの直後だった)、その後も増席を行うたび瞬く間に券が捌けた。もちろん魅力ある俳優を揃え、実力・注目度ともに申し分ない作家にオファーした結果だが、育児と演劇の関わりに悩む関係者・顧客が多くおり、その需要に応えられる施策を打ったことが券売に繋がったことは間違いない。

最後に適時性。本サイトを運営するプラットフォームデザインlabはセゾン文化財団創造環境イノベーション(※1)の助成に採択されているが、セゾン文化財団の申請の公募概要では、

事業で取り上げる課題は任意で広く募集するが、「舞台芸術活動と育児の両立支援」および「舞台芸術の観客拡大」を重点テーマの一つとする。

と明記されている。

さらに別の事例も挙げよう。

舞台芸術祭「秋の隕石2025東京」の公募プログラムに200件の応募の中から採択された「うたうははごころ」の企画もまた、育児当事者の俳優が母となり演劇との向き合い方を模索する中から生まれたものである。

プログラムの採択に関わるアーティスティック・ディレクターの岡田利規は、

うたうははごころを、育児中のママにだけ刺さるといったようなものではない。そうした文脈に限定されないしかたで、この社会に生きるわたしたち誰しものための演劇として、つまりいち舞台芸術として、「秋の隕石2025東京」はその新作、『劇場版☆︎歌え!踊れ!育て!ははごころの庭〜子供服は輪廻です〜』を紹介する。(※2)


と記している。

岡田さんの言葉をあえて雑に借りれば、舞台芸術と育児、それにまつわる諸々はきっとこの社会に生きるわたしたち誰しものためのことだ。

見つめるなら早い方がいい。どの世界でもそうだけれど、アーリーアダプターの方が得をする。

たとえ共感できないにしても、このくらい情報があればやった方が得とかやって当然の環境になっていることはわかるはずだ。

わかったならやろう。私も続けていくつもりだ。

本サイトが舞台芸術と育児にまつわる「こえのわ」を作るのであれば、非当事者のこういった声がひとつくらいあってもいいのではないか、「こんなダメで即物的な人間も育児・託児に向き合おうとした」というアーカイブを残すことには意味があると思い、ここまで筆を執らせていただいた。聞き苦しい声で申し訳ないが。

舞台芸術と子育てにまつわる情報を能動的にキャッチしに本サイトを訪れた方は私の文章なんて忘れ、当事者の声を聞き、考えを深め舞台芸術の世界を少しでも良くしていってほしい。

本サイトになんとなく義務感で訪れた方、育児を自分ごとではないと捉えている方も大歓迎だ。

偉いというと当たり前だろと怒られそうだけれど、私はあなた方の一歩も讃えたい。えらい。

今の私は「共感できなくとも取り組むこと自体に実利がある」と述べる程度のことしかできないが、これからも当事者の声を聞くことで、育児と舞台芸術の関係がより良きものになるような取り組みを考えていきたい。

壁としての託児を超えて。


(※1)公益財団法人セゾン文化財団 創造環境イノベーション
(※2)舞台芸術祭「秋の隕石」とは

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