KAAT神奈川芸術劇場「カイハツ」プロジェクト
~子連れOK!新しい表現を探す旅~創作ワークショップ取材!
最後の1時間を使って行われたのは「記憶エチュード」。ABCと三人一組となって、冒頭の自己紹介の中で共有された「Aの10 歳くらいの頃の記憶に残っている出来事」をBとCが即興で話す。それに対してAは体の一部のみでしか反応ができない状態で会話に参加をする、というエチュードです。「yes /no」以上のコミュニケーションが発生するこの試みでもまた多くの気づきがありました。
例えば、「話せない人の記憶を話せる人だけで話していること」への違和感。同じ場所にいるにも関わらず透明化している/されているような気持ちになる、という実感もその一つでした。実際にAの立場を体験した俳優の中からは「会話する喜びがおとずれそうなタイミングで話題が次に移ってしまうのがもどかしかった」、「どうしても会話ではなく、台本のようになっている気がする。その上で自分は共演者ではないような、その会話にいなくてもいいような感じがしてしまう」、「会話の中でわからないことがあった時にそれを伝えるのが難しく、諦めやフェードアウトに繋がっている気がする」といった声があがりました。

それに対して「BCはもっと時間をかけて、一つひとつの話題にとどまってもいいし、Aも“わからない”という意思表示をして会話を止めてもいいのかも」、「話題によっては意見や感情が多くて伝えきれないことも起こりそう」、「言語だけでどうにかしようとするのではなく、それ以外のものを媒介して(例えば身近なものを何かに見立てて伝えたりして)コミュニケーションを図ることもできるのではないか」と意見が交わされました。
制限があるがゆえ、どうしても「yes/no」の反応で引き出そうとしてしまう節がある、という率直な実感と、それだけに終始させないコミュニケーションのためには何が必要なのかという問い。会話やコミュニケーションは必ずしも「わかること」が目的ではないのに、どうしても「わかろう」としてしまう。もちろん、そのことによってこそ叶う理解や共感もあるけれど、「わかること」をゴールにするのではなく、その過程をどう温め、解していくかも同じくらい重要なのかもしれない。「体の一部しか動かせない人」とのコミュニケーションとクリエーションを考える今回のWSを通して、私はそんなことを感じました。
「わかりたさ」と「わかってほしさ」。そしてそうあってもなお生じてしまう「わからなさ」。さらに、そのことによって「わかったこと」があったこと。実際に「体の一部しか意思表示に使えない」という状態を体験し、その相手と対峙することで初めて手にする感触がありありと伝わる時間でした。

